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要約化する眼

太田省吾『舞台の水』を読む。

太田は、私たちの眼を要約化する眼、概念化する眼と定義づける。
つまり、我々は眼で見た物を、既存の概念に帰属させていく。
この原理を逃れる表現を実現することが、太田の創作手法なのだろう。

そして、ここからが面白いと思ったのは、わけがわからない表現を否定しているところだ。
「わけがわからないものを提示することは、反価値の提示という概念的な試みでしかないだろう」
そして、続ける。
「要約できないものとは、わかるものの中に見出されるものである。わかるものだが、それをどう要約しようとしてもできないもののことである」
これほど、創作の本質を突いた言葉はない。
僕の創作にとっても、規範としたい言葉だ。

言葉によって定義付けられない何者かを乗り越えようとする状況を舞台によって表出させようとする太田省吾。
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ヨン・フォッセ2作

こまばアゴラ劇場でヨン・フォッセ作、三浦基演出の『眠れよい子よ』『名前』を観る。

昨日の太田省吾を含めて思ったのは、ヨン・フォッセの作品というのは演出家に何かをさせてしまうテキストを書くのではないか、ということ。今回の演出では、言葉を切れ切れに喋ったり、普通ではないトーンで喋ることで、日常性からの脱却が試みられていた。まあ、面白いかと言われれば面白くはないんだけど。というか、趣味ではない。照明の暗い中で行ったり、言葉に切れ目を入れたりするのは、クロード・レジの影響が出ているのではないかと思われる。『眠れよい子よ』はベケット風の存在の不確かさに関するモノローグを3人で交互に話す作品。『名前』は、妙な家族の話。感情の出し方が普通じゃないところが、面白みか。

「何でこういう風にしちゃうんだろうねえ、全部こうしなくてもいいじゃない」って感想が印象的。
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「かもめ第2章」

天王洲アイルスフィアメックスにてク・ナウカプロデュース、ジャンカルロ・ナンニ演出の「かもめ第2章」。イタリア人演出ということで、衝動的にいったのだが、演出で特に秀でた部分は感じなかった。何か小劇場っぽい何というか、スタイリッシュさが欠けた感じ。まあ会場が劇場というより、稽古場っぽいところだから仕方ないのかも知れない。

あえていえば、描かれた世界とは全く関係のない動きをしながら台詞を言うことによって、さんざん使い古されてきた「かもめ」のテキストを純粋に楽しめるように仕立てていたこと。現在にも適用できるような普遍性を際立たせることに成功していたってことか。異化ってやつですかね。「かもめ」、これ、好きな戯曲ですね。チェーホフもちゃんと読まないと。

外は雪。モスバーガーでスープを飲んだ。
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「だれか、来る」

世田谷パブリックシアターで太田省吾演出、ヨン・フォッセ作『だれか、来る』を観る。

不気味な作品だった。運動しているが、どこにも移動しない。まるで振り子のようだという印象を受けた。

男と女が誰もいない場所で2人きりの生活を送ろうとする。しかし、女が「誰か来る」気配を感じると繰り返し叫ぶ。すると、本当に若い男がやってくる。若い男は女にちょっかいを出す。それを目撃した男は嫉妬し、家の中に入っても男が来るという強迫観念にかられる。実際に、家の中に若い男が来る。交流を女は拒否する。若い男は、家を出て行く。男は嫉妬心にかられ、女を罵倒する。女はふいに家から出て行く。一人になった男。「私にはわかっていた、だれか、来る、と」力なくつぶやく。と、女が戻ってくる。ふたり寄り添って暗転。

ゴドーは何かを期待して待ち続けるが、これは何かから逃れようとする物語だ。ドラマ性が徹底的に排除されており、一体なんだったのかわからなかったが、プログラムの太田とフォッセの対談に「alone togerther」という言葉が出てきて合点した。二人きりというのは、alone togertherの訳らしい。背反する意味が同居した言葉。いい言葉だ。フォッセはこれを理想郷として捉えている。とすると、ある理想郷を求める物語として読めなくもないが、それじゃあまり面白くないなあ。振り子というイメージから読み解くことができる気がするが、今日は眠いので寝る。

太田省吾の演出は初めてだったが、やはり間が多く、間延びする感じ。寝不足がたたって15分程居眠りしたが、話は全く進行していなかった。
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クロード・レジ

こまばアゴラ劇場でクロード・レジのシンポジウムがあるというので行ってみる。

「舞台装置を取り外して ことばを無限にまで」というタイトル。ゆっくり動いたり、話したりすることが特徴の演出家らしい。フランスの太田省吾といったところだろうか。レジはその太田省吾が来年演出するヨン・フォッセの「だれか、来る」をフランスで演出しているそうだ。長くても1時間20分ほどで終わる芝居を3時間近くまでやったらしい。

また、俳優が舞台に現れず、シルエットのまま言葉が中空を漂う演出など、装飾を廃した舞台を好むという。写実的、政治的な演劇を罪悪と断じ、観客の想像力という補完によって、初めて舞台が始まる、というように日常性ではない所へのトリップする触媒としての演劇。示唆に富んだ発言が多く、なかなか意義深いものがあった。
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カルロ・ゴルドーニ『抜け目のない未亡人』

カルロ・ゴルドーニ『抜け目のない未亡人』読了。面白かった。構造は単純。美しい未亡人に言い寄るイタリア人、イギリス人、フランス人、スペイン人。召使を使って、未亡人に贈り物をそれぞれ贈る。未亡人はそれぞれの国の人に変装して、本当の気持ちを調べる。最後、夜会にて、未亡人が自分の結婚相手を選ぶ。18世紀に書かれた作品にも関わらず、システマティックに進むことに驚いた。何より、単純な構造なのに面白く感じる。この面白さとは何なのか。どのような物語が、面白さを秘めているのか。読むことで探っていく。
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ジクムント・フォーリーズ

フィリップ・ジャンティ・カンパニー「ジクムント・フォーリーズ」@青山円形劇場を観る。指人形のカンパニーとは知らなかった。あまりスペクタクルもなく、小ネタのオンパレードといった印象。それにしても、字幕がだめすぎる。フランス語がわかったら、もっと楽しめたかもしれない。ストーリーに全くついていけず、辛かった。
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クーレ・ワンペ

ブレヒトのクーレワンペという映画を観た。
実は、知りたいと思いつつも、ブレヒトはちゃんと読んだことがない。きっかけになれば、という軽い気持ちで観にいったのだが、思いもかけず素晴らしい作品に出会えた。
何しろかっこいいのだ。
失業者が増加しているドイツのお話。激しくうなる音楽をバックに、失業者たちが職を求めて自転車が疾走する。車輪、失業者の顔のアップなど写真のように美しいカットが印象的だ。前髪のないショートボブの姉さんも美しい。
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トーキョー・ボディ

念願の宮沢章夫の舞台、トーキョーボディを観た。
タイトルからして、身体が前面に押し出された舞台なのかと期待していたのだが、その期待は裏切られた。
体験したのは2時間半における、テクストの山であった。思いもかけず、セリフ劇だったのである。
もちろん、ただのセリフ劇ではない。盲目の先生が娘のトリコを探しに東京に向かい、東京で教え子に会い、教え子が先生を探す、というストーリーにサスペンドされながら進んでいくが、一筋縄には行かない。映像を効果的に使った手法により、舞台とは別の地平の虚構的な、二次的な空間を生み出し、実際の舞台とスリット奥の舞台とそこを映し出す映像とを股にかけ、脈絡もなく登場人物が横断し、ダンスが挿入される。断片のカタマリといった感がある。
また、私は警備員(あるいは劇作家、詩人、資本主義など)ではなかった、私は警備員だった、という風に、登場人物が役割を名乗り、かつ否定しどちらでもあるような曖昧な存在を名乗る場面が劇の端々に挟まれる。この言葉こそがそのまま「からだ」に適用できるように思った。勘だが。
この部分はハイナーミュラーの引用だが、ほかにも色々なものが引用されていた。タルコフスキーのノスタルジアとか。それからトリコという名は偶然かもしれないがやまだないとが好んで使う名前である。
それに関連して、なぜか岡崎京子を思い出してしまった。特にリバーズエッジで引用される「平坦な戦場で僕らが生き延びること」というバロウズの詩は、トーキョーボディー中に使われた「みなさん、何もない一日の始まりです」と同様の意味である。
スタイリッシュさ。テーマがテーマだけに、もっと泥臭くやっても良かった様に思う。これが、宮沢本人も言っていた、デザインしてしまう、ということなのだろう。それが彼の味であるには違いないが。
それにしても、最後の「音」が忘れられない。おぞましいものを観た気がした。
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